プロフィール
はじめまして。かのんです。
数あるWebサイトの中から、お越しいただきありがとうございます。
「50代、スキルなし、貯金なし。だけど、人生を諦めたくない。」
これが、今の私の正直な気持ちです。
気づけば子供中心の生活が当たり前になり、自分の人生を後回しにしてきました。
けれど、子供が成人したのをきっかけに自分の人生を振り返ったとき、ふと思ったのです。「このままやりたいこともやらずに終わりたくない」と。
このブログは、崖っぷちアラフィフ主婦がゼロから在宅ワークで月収30万円を目指す奮闘記です。
「今さら新しいことなんて無理?」
「50代からの挑戦なんて遅すぎる?」
そんな不安を抱えながらも、一歩を踏み出す決心をしました。
1.幼少期~小学生 バレエに夢中な活発お転婆娘
私は地方の教員の父と会計事務所に務める母の一般家庭に生まれました。
兄と双子の姉と私の3人兄弟。
感受性が強く泣き虫、でもいつもニコニコ笑顔を絶やさない子供でした。
なぜなら物心ついた時から常に双子の姉と比較されていたからです。
一卵性双生児なので顔は似ている私たちを周りの大人たちは
「ニコニコしている方が○○ちゃん(私)」「愛想がない方が○○ちゃん(姉)」
と区別をしていました。今思えば心ない言葉です。
ですがそれが当たり前の日常で、ニコニコしているとちゃんと区別して、
かわいがってもらえる!と物心ついた時には愛想を振りまくことが定着していました。
(今思えば可愛くない子供でした)
家の目の前が小学校だったことがあり、広い校庭が自分の庭。
(当時は無制限に出入り自由でした)
かけっこが得意で毎日、日が暮れるまで小学校の校庭を走り回っているような、
外遊びが大好きな活発な幼少期でした。
父方の祖父がテレビ出演や日々講演会をこなす教育業界では名の知れた人だったこと。
父が地元では知らない人はいない厳格な体育教師、という環境だったこともあり、
しつけは特に厳しく、何をするにも「父親の顔に泥を塗ることは絶対にするな。」と
世間体が第一優先。
折檻されることも珍しくなく、口答えなどは一切許されませんでした。
今思えば、3人の子供をワンオペで育てなければならなかった母は、
日々必死で余裕がなかったのでょう。
幼少期、母と手をつなぎたくて手を伸ばしても振り払われ、
抱きしめてもらった記憶もありません。
とにかく私は寂しかった。
母の愛情に飢えていた子供時代。母に褒めて欲しい一心で、
子供ながらに自慢できる娘でいるために愛想をふりまきながら努力をし続けました。
小学校に入学すると持ち前の運動神経と音楽センスを生かしリレー選手や
学芸会等の学校行事は全て代表に選ばれ、クラス委員、生徒会にも積極的に参加し、
先生方からも頼られる存在に。
それでも人より優秀であることは当然の義務で、褒められたことは一度もありません。
代わりに祖父母の愛情を一身に浴び、親せきの大人たちにかわいがられつつ、
いつも双子の姉と一緒にいることで寂しさを紛らわせていました。
双子は優秀でないと、という母の方針でピアノ、クラシックバレエ、習字、
塾等の習い事をこなしました。(私たちがやりたいと言い出したわけではありません)
幸運なことに周りの環境や友達に恵まれ、特にバレエには夢中になりました。
とにかく踊ることが大好きで、踊っていると体中が細胞レベルで喜んでいるのが分かるぐらいです。本気でバレリーナになることを夢見て練習に没頭。
厳しい練習もちっとも苦にはなりません。
地元のフェスティバルやコンクール、発表会。
大好きなことに没頭できた経験は私の人生の中でもかけがえのない大切な宝物です。
2.中学生~高校生 初めての挫折
中学生になるとそれまでの環境が一変しました。
私の地元では当時、進学校信仰が根強く残る閉鎖的な地域でした。
学区内の中学では進学率が悪い(志望進学高校への合格者数が少ない)
という理由で引っ越しをし、合格者が多い公立中学へ入学することになりました。
もちろん私たちの意志は尊重されず、大好きな友達との別れがとても悲しかったです。
入学した中学校は教育にとても熱心で校則も厳しく軍隊を彷彿とさせる校風。
部活動と勉強を両立させようと毎日必死でした。
中学2年になると受験に差し支えるという理由で突然バレエを辞めさせられました。
学業と両立するからやめさせないでほしい、と懇願しても聞いてはもらえず、
本当につらかった。
そしてクラス替えがあり、たまたま学年で一番人気の男子と隣の席になったことで
歯車が狂いだします。
「いい気になっている」、「男好き」とクラスの女子全員から無視され、
気が付けば孤立していました。
親には相談できるはずもなく、ある日とうとう授業中に過呼吸になり、
保健室に運ばれてしまいました。
このことが原因で余計反感をかい、クラスでの居場所は完全になくなりました。
勉強もだんだん難しくなり、成績は落ちる一方。
極度の鬱状態になり自律神経失調症の診断。
両親も初めは心配してくれましたが、何度も不安定な状態を繰り返す私に
痺れをきらし 「こんな迷惑をかけるなら出ていけ」と怒鳴られ、本当に悲しかった。
もともと両親は普段から喧嘩が絶えず、さらに私の事が原因で喧嘩が
エスカレートしてしまい、「全部お前のせいだ!」と言われ、
私はなんて親不孝なんだ、と自分を責め、消えてなくなりたい。
と何度も思いました。
この時期に、絶対服従の価値観の中で、親の引いたレールから外れたことで
人格を否定され、辛いことがあると目を背けるようになり、
自己肯定感の低い人格が形成されました。
受験勉強に集中できず、高校受験は不合格。双子の姉は見事合格。
天と地の差。
わたしは初めて人生の大きな挫折を味わい、生きた心地がしなかったけれど、
姉が合格してくれたことで両親は面目を保つことができました。
そしてこのころますます両親の不仲に拍車がかかり、
家に帰れば毎日絶え間なく怒号が飛び交い、常に耳を塞ぐ日々。
時には父の母に対するDVの仲裁にも入らなければならず、
早く大学受験に合格し、ひたすら家を出ることを夢見た高校3年間でした。
大学受験で姉は見事合格!私はまたもや受験失敗。
最後の最後でなんとか滑り止めに合格。やっとこれで家から出れる!
しかし既に兄が県外の私立大学に進学していたため、
同時期に姉と私の3人分の仕送りは無理。
そこで志望校に合格できなかった私が必然的に仕送りなしでアルバイトをし、
生計をたてることになり、それを承知で上京したのでした。
3.大学生~ 貧しくても自由な日々
見つけた物件は築50年以上の風呂なし共同トイレの4畳半一間。
絵にかいたようなボロアパート。
毎日一日の大半はアルバイト生活。飲食店、販売業、いくつか掛け持ちをし
ハードでしたが、同年代の気の合うバイト仲間に数多く恵まれ、楽しい日々。
仲間の下宿先に集まって一晩中語り合ったり、休みの日をあわせてテーマパークに行ったり、みんなで旅行にも。
一般の大学生には普通のことでも、私には何もかも初めてで全ての経験がが新鮮!
一方限られた収入で生活費をやりくりすることは正直大変なことも多々ありました。
(光熱費の支払いができず、電気と水道が止められたこともありました(笑))
勉強らしい勉強もする暇もなくアルバイト漬けで単位を落とし留年しかけたり…。
おかげでやりくりしながら生活する工夫とたくましさを身に付けることが出来ました。
自分とは異なるバックグラウンドを持つ多様な人々と関わる中で、
狭かった価値観が少しずつ変わっていきました。
決して同級生たちのようなオシャレなキラキラした大学生活ではなかったけれど、
それでも全て自己責任の下、人生で初めて心から自由を満喫できた幸せな時期でした。
4.社会人~ 理不尽と忍耐
あっという間に大学4年生になり、就職活動は迷うことなく、
地元に帰らず東京で探す一択。
資格も何もないので不安でしたが、ありがたいことにすぐに都内の不動産会社に
就職が決まりました。
面接のとき、「仕送りなしで自分でアルバイトをして生活費を稼いでいる」
と話したことが部長にガッツがあると高く評価され、即採用になりました。
入社してみると私の業務は営業部の請求書作成、発送業務がメインでしたが、
実は半年以内に次々と人が辞めてしまうポジション。
なぜなら社内で男性社員がメインの営業部と女性社員のみで構成された総務部にわかれていて、男性社員と女性社員の仲が悪く、男性部屋(営業部)に女性は私一人。
ただそれだけで、他の女性社員全員からハラスメントの標的にされました。
理不尽な事も多く経験しましたが、そのおかげで色々な仕事を一から必死で覚え、
上手く立ち回れるようになり、今となっては良い経験だったと思えるようになりました。
5.30代~裏切りの結婚生活とかけがえのない宝物
この頃お付き合いしていたのが今の夫です。当時女性が結婚相手に求める条件は、
「3高(高学歴・高身長・高収入)」
ですが、私は贅沢なんかできなくていい。子供に親の不仲で寂しい想いはさせたくない。 優しく喧嘩もしたこともない彼と結婚を決めました。
「穏やかな家庭を築きたい」「心穏やかな居場所が欲しい」ただただそれだけでした。
結婚後、長女を授かりマンションを購入。一見順調な生活でしたが、
出産直前のタイミングで夫の浮気が発覚。実はこれが初めてではなく、深く傷つきましたが、「生まれてくる子に誓ってもう二度としない」という言葉を信じて許しました。
一人で子供を育てる自信がなかったのです。
産後一か月ですぐに仕事復帰し、ワンオペ育児とフルタイム勤務に追われ、心身ともに限界に。それでも必死に日々をこなし、日に日に可愛く成長するわが子への愛情が、母親としての覚悟へと変わっていきました。
そんな中、しばらくして夫が不正を働き会社をクビに。そのうえ300万円の借金が発覚。
浮気だけでも耐えがたいのに、信頼まで崩れ、どうしたらいいのか分からなくなりました。親には相談できず、姉が借金を立て替えてくれ、私は必死で家計をやりくりしつつ返済しました。
数年後待望の第2子妊娠。このタイミングで私は仕事を辞め、一旦専業主婦になる決心をしました。収入が減るのは不安でしたが、毎日しっかり夫に向き合って同じ過ちを防ぐためです。
今度こそ盤石な家庭を築いて家族で幸せになりたかった。
しかしまたしても第2子出産直前のタイミングで夫の浮気が発覚、
仕事で不正をし会社をクビに、その上借金200万。
私はショックと心労で倒れ緊急入院。その後、無事に生まれた長男の顔には私の極度のストレスが原因と考えられる大きな母斑がありました。
わかりやすく言えば痣ですが、息子の場合とても特殊なもので大きく、かなり目立ちます。この時のショックは言葉で表現することが出来ず、自分の精神的な弱さを悔やみ深い自責の念に駆られました。
さらに「将来的にホルモンの関係で母斑が肥大し皮膚がんになる可能性があります。」
と医師から告げられ、絶望しかけましたが、逆に母として、
どんなことがあってもこの子を一生守り抜く、と心に決めた瞬間でもありました。
表面上は優しい夫と2人の子供に恵まれ、「仲の良い幸せな家庭」
しかし現実は違いました。結婚生活12年の間に、本気で向き合い話し合いを重ねても
夫は4度の浮気、会社をクビになり4度の転職、さらに借金は合計500万円以上。貯金0。 周囲から「優しい旦那さんで羨ましい」と言われるたびに、心の中には虚しさが募るばかり。「私が望んだ幸せとは何だったのか?」と自問自答する日々。
裏切りや嘘の上に成り立つこの家庭は、本当に子供たちのためになっているのか。
何度考えても、答えを出せずにいました。
長女が中学入学を目前に控えた大事な時期、夫の浮気が再び発覚。「次はない」約束していた通り、別居を決意。夫は慌てふためき、「今度も許してもらえると思ってた…」と。
それを聞いた瞬間、私はやっと悟りました。
いくら本気で向き合っても、人は簡単にはかえられない。
同じ過ちを許し続けることは、ただ甘えを助長するだけだと。
夫は離婚を拒み、反省の意を示す形で夫は生家に戻り、私は子供たちとマンションで暮らす別居生活を始めました。
離婚ではなく別居という選択をしたのには、2つの理由があります。
- 私の収入だけでは子供たちを養う経済力がないこと
- 息子がヴァイオリンを続けられる環境を守るため
息子は小学校入学前、突然ヴァイオリンを習いたいと言い出し、体験レッスンに連れて行くと、驚いたことにその場で簡単な曲が弾けてしまいました。楽譜も読めないのにです。
すぐに先生からコンクールを勧められ、結果を出せるように。
そしてなにより、他の人とは違う独自の美しい音色を持っていたのです。
別居を選択したこの時期、音楽の道に進むよう、既に音大付属中学受験を勧められていました。
離婚すればヴァイオリンはやめさせなければならない…
「一体、これは何の試練なのだろう?」私は本気で悩みました。
わが家の経済力や家庭環境を考えれば、音楽の道に進ませるのは到底無理な話。
どれだけ厳しい世界だと伝えても、本人は挑戦したいという強い意志は変わりません。
私自身、子供の頃にやりたいことを叶えられなかった経験があり、子供の適性を見極め、
尊重したいという想いがあります。私の至らなさで、顔に母斑をもって生まれさせてしまったことへの自責の念に加えて、急な別居で寂しい思いをさせていることもあり、
親の都合で無理にやめさせることは、どうしてもできませんでした。
プロの音楽家を目指すなど素人でもどんなに無謀なことかはわかり切っています。
それでも息子の意志を尊重し、音大付属中学受験を決め、自分の人生の時間をかけて行けるところまで行く。と覚悟をしフルタイム勤務で仕事を再開。
長女への配慮もしつつ、息子をサポートするために1分1秒惜しみ、二人三脚で音楽漬けの生活がはじまりました。
そんな中、母が東京の大学病院で腎臓移植の手術を受け、術後は月に一度の定期検査のために上京するようになりました。その影響で、毎月1〜2週間は我が家で共に生活し、介護が必要な日々に。
病院への付き添い、数値悪化時の短期入院対応、滞在中の塩分制限付きの特別メニューの準備など、日々の忙しさはさらに増し、多忙を極めました。母の介護で急な呼び出しにも
対応できるよう、私は時間の融通が利く職場へと転職しました。
娘が初孫だったこともあり、母は子供たちをとても可愛がってくれました。
正直介護は大変でしたが、毎月検査のため上京し、子供たちに会えるのを楽しみにしている母の姿を見て、初めて「親孝行ができた」と思え、本当に嬉しかった。
子供たちのかけがえのない存在が大きな心の支えとなり、
私を日々たくましく強くしてくれました。
6.40代~突然の母との別れと父の死
娘が高校生、息子が中学生になったある日、突然、姉から「母はもう長くはない」
と連絡が入りました。
実は、母が亡くなる数年前、ある出来事をきっかけに
地元にいる姉とは絶縁状態になっていました。
そのため、詳しいことは知らされておらず、まさに寝耳に水の知らせでした。
急いで病院に向かいましたが、母の最期には間に合わず。
数年後、父も後を追うように旅立ちました。
まさか40代で両親を亡くすなんて、思いもしなかったこと。
現実を受け入れるのは容易ではなく、時間の経過という「時薬」が必要でした。
いつも別居のことを常に気にかけ、子供たちの将来を案じていた母。
いざというときには経済的にも支えてくれていたのに、
最後まで心配をかけたまま見送ることになり、今でも悔やまれてなりません。
7.50代~アラフィフ人生最後のチャンス
月日の経つのは本当に早いものです。
別居生活10年の間に、夫は多少の問題がありつつも、大きな問題にはいたらず
生活出来ています。
ありがたいこと私を反面教師にして、娘はしっかり者に成長しました。
大学進学後は奨学金を借り、自分でアルバイトで稼いだお金で授業料を払い
卒業して社会人となりました。
息子もハードなスケジュールの合間にアルバイトをしながら音大へ進み、無事に成人。
親として少し肩の荷が下りたように感じると同時に、50歳を過ぎた今、
初めて自分の人生について改めて考えるようになりました。
これまで私は古い固定観念に縛られ、誰かのために生きてきた。
そろそろ自分の人生を生きてもいいのではないか。
とはいえ、息子はまだ大学生。それどころか、場合によっては卒業後も音楽活動を経済的にサポートできるのが理想です。
大学卒業後には独り立ちできるよう支えつつ、離婚も視野に入れ、
細心の注意を払いながら準備を進めなければなりません。
いつまた夫が問題を起こすのではないか、という不安をかかえながらの生活は
もう卒業したい。
まず経済的自立を果たしたい、そんな思いから働き方を模索していた中で、
あるオンラインスクールと出会い、在宅ワークという選択肢を知りました。
在宅ワークなら、
・時間と場所にとらわれず自由に仕事ができる
・年々感じる体力の衰えを気にせず働ける
オンラインスクールで学び在宅ワークで理想の収入を得られれば
・気兼ねなく趣味に没頭でき、旅行にも行ける!
・娘の海外留学の夢も手助けしたい!
・息子の音楽活動に必要なSNS発信スキルを身につけ、サポートができる
もちろんそんなに簡単ではないことはわかっていますが、
こんな理想の働き方ができるなら人生変えれるかもしれない!!
50代、スキルなしでキャリアアップ前提の転職は、
現実的に厳しいと諦めていた私にとって、まさに希望の光でした。
「現状を変えるなら年齢的にも今が最後のチャンス!」
そう覚悟を決めて会社を退職し、オンラインスクールでWebスキルを一から学び始めました。
しかし、そんな矢先、相続問題が表面化。話し合いは難航し、泣き寝入りするか、
調停に持ち込むかの決断を迫られる事態に。
40代で両親を亡くし、親戚とも絶縁状態の今、
まさか唯一の身内である兄弟で相続で揉めることになるとは、まさに青天の霹靂でした。
あまりのショックに数か月間、何も手につかず、人生を諦めかけました。
そんな私を見かねた娘が、話もできない状態の私に寄り添い、弁護士への説明を代行。
理路整然と相談を進め、その姿に弁護士も驚くほどでした。
頼もしい娘の姿を見て、
「このままではいけない。子供たちのためにも、前を向かなければ」
と奮い立ちました。
離婚も相続問題も、まるでドラマや映画の話のようで、
まさか自分の人生に起こるなんて夢にも思っていませんでした。
争いを避け、本来向き合うべき問題から目をそらし続けた結果が、今の状況です。
今こそ、どんなに辛くても向き合い、けじめをつけるべき時期だと感じています。
悩んでいる暇はありません。 ピンチをチャンスに変え、
人生の後半戦を誰のためでもなく、今度こそ自分らしく謳歌したい!
その為にもまずは経済的自立を目指し、在宅ワークの基礎であるWebマーケティングを学び、「在宅ワークで月収30万円」を本気で目指します。
もしあなたも人生の後半戦で「自分の人生を変えたい」と思っているなら、
私のこの奮闘の記録があなたの背中をそっと押し、一歩を踏み出すきっかけになれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。